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日本人のルーツ「縄文人」とは?

国立科学博物館館長
篠田謙一

今後の発展

#3
土田

今後、縄文の祖先学研究はどの様に進展していくのでしょうか。

篠田

ゲノムを薄く読むサンプルを増やす

 日本人が歴史的にどのように形成されてきたのかを知るための研究として、集団中の遺伝的な特徴を、遺伝子全体の薄読み(時間とコスト負担が軽いため、多くのサンプルを読めるが1サンプルあたりの情報が限定的)を使って解析する方法がありますが、これでかなりのことがわかってきています。ただし現状では、この薄読みをする個体をもっと増やすことが必要だと考えています。縄文人の人骨はこれまでに全国で数千体出土しており、そのうちゲノムが解析できたのが100体くらいのレベルですので、最終的には1000体以上にしたいですね。薄読みの結果で、彼らの成り立ちをきちんと調べて、将来的には北と南の縄文人の違いがわかるまではしたいと思っています。

ゲノムを深く読むサンプルを増やす

 さらにその縄文人がどのような形質を持っていたのか、どんな病気になりやすかったかなどの情報を知るためには、深読みの遺伝解析をしなければならないのですが、まだそこまではなかなかたどり着いていません。深読みに対応できる縄文人のゲノム解析サンプルが中々なくて、現在までに、現代人DNAと同じレベルで分析や深読みができている縄文人は4、5体です。 今考えているのは、弥生時代の人骨だけど、大陸と混血しなかった骨を使って解析すれば、縄文人のゲノムが分かるんじゃないかということです。時代が新しい分、解析ができる可能性が高くなります。
 実際、弥生時代になっても、混血せずに全く縄文人と言っても良いような人骨があります。定義としては弥生時代になるとみんな弥生人ということになるのですが、遺伝的には縄文の遺伝子をそのまま持っているという人はいるんですよ。もっと後の古墳時代にも縄文人のままの人がいることも分かっています。ただ、古墳時代まで残った縄文人のゲノムを持つ人骨が出てくるのは、九州の離島などに限られます。中世ぐらいまでの世界では、遺伝的には「まるっきり縄文人」という人もいて、中世人は縄文顔の人を見てたはずです。どこか歩いてたらばったり出会って、何か違う奴だなって思ったかもしれないですね。
 ゲノム解析がうまくいって、縄文人のゲノム1000人分を、例えば現代日本人と同じぐらい読めたら色々なことがわかるだろうと期待しています。そうすると、私たちが持ってる病気は、どの時代から出現しているのかもわかるでしょう。縄文人の持っていたゲノムの中で、私たちに残っているもの・消えたもの・増えたものがあるはずなので、この違いを現状あるデータを使ってバイオインフォマティクスの研究をされている方もいます。このような研究は、縄文ゲノムを量的質的に増やすことで、精度の高いものになっていくでしょう。

日本館2階「骨を読む」
日本館2階「骨を読む」

韓国から出てきた縄文人遺骨

 古代ゲノム研究で、今話題になっているのは、韓国から出た人骨からも縄文人と似たようなDNAを持った人が出てきているということです。縄文人とまったく同じゲノムを持つ人骨もあるようです。おそらく日本から行ったり、向こうから来たり、何度も往復していた縄文人のグループがいたんだと思います。実際、現代の韓国の人たちにも縄文のDNAが少し残っています。先にお話ししたように日本人では10-20%が縄文人由来のDNAですが、韓国人にも1-2%程度は縄文人に由来すると考えられるDNAがあります。おそらく旧石器時代に、大陸を南から移動して日本に入って後に縄文人となる人たちが、大陸の側にも少し残った結果、現代の韓国人にもそのDNAが伝わったということだと思います。縄文人の祖先に当たる集団が移動した範囲は非常に広くて、北の先住民族にも、台湾の先住民族にも縄文人と同じDNAが少し残っています。
 韓国人は中国人(北京の漢民族)とDNAが少し違っているんですが、その違いは縄文人由来のDNAを持っているためなのです。日本人はさらに縄文人由来遺伝子が多く、特にアイヌの人で顕著だというお話しをしました。韓国もより古い時代になると縄文人のDNAが濃くなることもわかっているので、その成り立ちも調べたいとは思っています。

土田

弥生時代は、縄文人、渡来人が混在して、現代日本人の感覚とはまったく異なっていた世界だったんですね。まだまだ日本の祖先遺伝学にはやるべきことがいっぱいありそうですね。 韓国で縄文人DNAがあまり残らなかったのは何か理由があるのでしょうか。

篠田

 結局、農耕民のほうが遥かに大きい集団になったからでしょうね。4~5万年前、最初にアジアに入ってきたのは狩猟採集民なんです。ただ狩猟採集民ってそんなに大きな社会を作らないので、皆それぞれ孤立して、それぞれの地域に生態的に適応して住むんです。交流がないものだから、遺伝的に分化していったんだと思います。それが1万年前より新しい時代になると、農耕民が出てきて、農耕民は食料供給が安定しているので人口を増やします。狩猟採集の先住民を飲み込んでいく形でどんどん拡散していくので、広範囲にわたって特定の遺伝的特徴を持った人たちだけが住むという結果になるんです。
 農耕が始まる1万年より新しい時代の中国大陸では、集団は大きく分けて3つのグループに分かれており、南のほうで米作りするグループと、黄河流域で雑穀を作るグループ、北の西遼河流域で雑穀を作るグループが形成されます。雑穀農耕のグループ2つの間には遺伝的な連続性があったようです。朝鮮半島経由で日本列島に入ってきたのは、この西遼河のグループだというのが今の考え方です。ただし、弥生時代の特徴はなんと言っても稲作農耕ですから、米作りをする南のグループから日本列島に来た人びともいたはずです。問題は、雑穀を作っていた北のグループがどこで米を作るようになったかなのですが、朝鮮半島以外考えられません。それでは大陸から日本に人が入ってきた3000年前の朝鮮半島はどうなってたのかというと、遺跡によって遺伝的な構成がかなり違うんです。それこそ縄文人そのものがいたり、西遼河集団そのものがいたりということで、その全貌を捉えることができていません。つまり現状では誰が日本に渡来したのかを明らかにできていないのです。
 ただ、弥生時代も1000年続きますから、最初の頃に日本に入った集団と後から入った集団は遺伝的に違うのではないか、ということが人類学でも考えられるようになっています。これは実際、考古学的には結構前から提唱されています。ただこの問題を解明する上でネックになっているのは弥生の最初の時期、つまり今から3000年前(紀元前10世紀)の人骨がほとんどないことなんです。初期の渡来人の遺伝的な性格を知るためには、3000年前に大陸からきた人骨が必要なのですが、この時代では山間部や海岸線の貝塚からしか人骨が出なくて、平野部で稲作をした人たちの人骨がありません。DNA的には縄文人しか出てこないんです。
 最初に日本に入ってきた、大陸系の弥生人がどれくらいの縄文人度を持っていたのかなどがちょっと分からないんです。今、そこが一番ホットなんですけれど、分析する人骨が見つからないので研究できないのです。

日本館2階「歴史を旅する日本人」
日本館2階「歴史を旅する日本人」
土田

弥生時代になって大陸から農耕民がきたといっても、そのルートが韓国からなのか、どこからなのかはまだわからないんですね。縄文人からどのように私たちにつながっていくのかがわかる時代もすぐそこですね。
 弥生時代に日本に入ってきた渡来人についてお聞きしたいです。渡来人の研究は現在どのような状況なのでしょうか?

篠田

 渡来人のゲノム研究はようやく始まったところなんです。ただ古墳時代になると集団としてゲノムを調べれば、もうみんな現代日本人の枠の中に入ってきてしまうことが分かっているので、この時代に関しては研究の目的が親族関係の解明になってくるんですよね。一つの大きな石棺の中に何人もが埋葬されてますから。例えば同じ石棺に入っているのは結婚した夫婦か?兄弟か?という方が研究者は気になるんです。
 弥生時代人は、遺伝的に縄文人に近い人や現代日本人に近い人などバラエティに富んでいて、それが1500年間ぐらいかけてだんだん収束してきて今の私たちと同じ遺伝子になると考えられています。古墳に入ってる人たちは遺伝的には大体現代日本人と同じですから、国家を作ったのはやっぱり今の私たちにつながる人たちなんですね。
 弥生時代、大陸から渡来した弥生人が縄文人の集団とコンタクトした場合は、 結構仲良く溶け込んでいったと考えられます。少なくとも戦争して殺し合った証拠はありません。むしろ殺し合うのは渡来系弥生人同士ですね。
 農耕をするため、土地に執着して取り合いになることで人は戦争を始めたようです。縄文人のような狩猟採集民は、仲間内で諍いがあったり食料がなくなれば移動すれば良いですから、集団で争うようなことはなかったようです。
 弥生時代は遺伝的に見れば、一番混ざり合っている時代ですから集団同士の関係もダイナミックなものだったと思います。 もっとも外国から沢山の人が流入している今のほうがずっとダイナミックですけどね。
 こうして眺めてみると、弥生時代から少なくとも古墳時代の初期のところまでがゲノムで紐解くことができれば、どうやって現代日本人が成立したのかがわかります。おそらく今ある地域差はその頃できたものだと思います。 例えば、有名な話なのですが、九州の人はアルコールに強くて、畿内を中心とした地域の人は酒に弱いヒトが多いという事実があります。これは弥生時代以降に大陸から入ってきた人にアルコールが飲めない人がある程度いて、彼らが日本の中心に入り込んだと考えると説明ができます。

土田

縄文人と渡来人の争いは少なく、むしろ弥生人同士の争いが多かったのは意外でした。縄文から弥生時代、弥生時代から古墳時代とどのようにダイナミックな変化が起こったのか、今後の研究によって明らかになるんですね。