縄文人と遺伝子の関係
#1
「縄文人」について
詳しい話をお伺いするため
国立科学博物館に
お邪魔しました。
まずは基本的なこととして、縄文人と遺伝子の関係性についてお聞かせください。なぜ縄文人度の高い日本人と低い日本人がいらっしゃるのでしょうか?
縄文人のDNAは現代の日本人に10%から20%ほど残っています。日本人数千人のデータを見る限り、全く縄文人のDNAが残っていない人は1人もいません。むしろ、縄文人のDNAが残っていない人は日本列島に先祖が住んでいなかった可能性が高いでしょう。例えば、同じアジア人でも中国や東南アジアから来た人は縄文人のDNAをほとんど持っていません。縄文人のDNAは、日本列島に暮らしてきた先祖を持つ人たちに受け継がれてきたのです。
日本人の中で縄文人のDNAを最も多く保持しているのはアイヌの人たちになります。幅はあるので一概には言えませんが、本土の日本人とあまり混血していないアイヌの人たちならば、7割程度は縄文人のDNAが残っています。アイヌの次に縄文人のDNAが残っているのは、沖縄の人たちです。約3割程度と見積もられています。沖縄の人とアイヌの皆さんは、見た目が似ていますが、それはおそらく両者ともに縄文人のDNAが多く残っているからなのでしょう。
今あるデータの範囲で日本本土の縄文人DNAを比較すると、東北と関西に違いはあります。ただ本土の中では東北の方に縄文人DNAが多く残っているというだけで、それほどの差があるわけでもありません。地域別に縄文人DNAの特徴はあるけれども、詳しい分析がまだないので、正確なことは分からないのが現状です。縄文人度という言い方を使えば、北海道のアイヌと沖縄の人たちは縄文人度が高く、本土の方はそこまで高くないということになります。現代では人が移動していますから、本土では個人間のバラつきの方が地域差より大きいような気がします。
なぜ現代の本土人は縄文人のDNAが少ない傾向にあるかというと、弥生時代に稲作とともに大陸から入ってきた人びとが、日本列島の内部を移動していく中で、縄文人と混血したからだと考えられます。
なるほど、地域によって縄文人由来のDNA量が違うのは祖先の混血度によるものなのですね。
最近では、顔の復元などもされているようですが、地域による違いの特徴(例えば顔立ちや身長)などはあるのでしょうか?
まず身長の違いに関しては、出土した人骨の研究で、北の方が少し高いことが分かっています。南にいくほど身長が低くなる傾向があるようです。
次に、顔立ちに関しては、縄文人同士は似た顔立ちをしていますが、沖縄から出てくる縄文人の顔は若干他とは違うと言われています。北海道の縄文人骨の全ゲノム解析では、彼らが持っているゲノムの一部は、エスキモーなどと共通していることが明らかになりました。ただエスキモーと北海道の縄文人の顔立ちが似ているかというと、エスキモーは寒冷地適用の影響が強く、そうでもありません。
実際のところ、顔立ちの比較はすごく難しいんです。似ているか似ていないかというのは、何と比較するかという、その対象が大きく関与するからです。例えば私たちは、日本人と中国人を比較して「違いがある」と感じます。でも日本人と中国人、アフリカ人を比べたら、日本人と中国人はほぼ同じだと感じますよね。弥生時代に大陸から渡来してきた人と縄文人は相当顔形が違うので、彼らと比べると縄文人は北から南まで同じ顔立ちだとなってしまうのです。ただ縄文人同士を地域別に比べると顔つきも少しは違います。なお、縄文人の顔立ちの特徴は、眉間近くが落ち込んで鼻が少し前に出ることです。他には顔の長さが短めという特徴もあります。こういった特徴が、他の大陸や渡来系弥生人と分かれるポイントです。
姿形の中で一番影響が大きいのは髪の毛の質や、目の色、肌の色などになります。これまでにゲノムが解析された縄文人の中では、毛質、目の色、肌の色を決める遺伝子は共通です。だから縄文人を複顔すると同じ顔になるんですよね。
顔の形はEDR遺伝子が大きく関与しています。EDR遺伝子は外胚葉由来の神経・表皮に関わる遺伝子で、タイプがいくつかあることが知られています。歯の裏側がシャベル型になる/ならない、髪の毛が直毛になる/ならないなどは、この遺伝子で決まっていると言われています。このEDR遺伝子は縄文系と大陸渡来系とではかなり違うことがわかっています。ですからその遺伝子の違いが縄文人と渡来人の違いとなっているのだと思います。
地域による特徴などもあるのですね。DNAから顔が復元できる研究が進むと、自分の顔に似た人たちが住んでいた遺跡なんかがわかるかもしれないのですね。
研究でゲノム情報をすべて解析できた遺骨(船泊23号、礼文島)について詳細をお伺いできますか。
現在船泊23号の頭蓋骨は札幌医大が収蔵していて、骨格については骨の形態情報を元に復元しています。一方、表面のテクスチャーは全てゲノムの情報から傾向を読み取っています。表面のテクスチャーというのは目の色や、肌のシミなどですね。その外面に出る遺伝子をいくつか読んで、特徴をつけています。
船泊23号は、目が茶色で、肌にシミができやすいタイプでした。多くの縄文人はおそらくシミができやすいタイプだったのだと思います。現代日本人の中にも、シミができやすい人とできにくい人が混ざっているはずで、出来やすい人は縄文人の遺伝子を受け継いでいるということになります。
また、縄文人は髪の毛が縮れ毛になりやすく、歯はシャベル型ではありません。縄文人の多くは身長が低いと言われていましたが、船泊23号の身長に関連する遺伝子を60個~70個ほど調べてゲノムからも身長が低いということが分かりました。実際に骨から推定した身長も140センチほどで、非常に低かったです。
ゲノムが解析できる以前に複顔した縄文人の顔は、テクスチャーは全てアイヌの人たちの特徴を参考にしていました。形質人類学の研究では、アイヌと縄文人の骨の特徴が似ていたので、皮膚の特徴なども似ていると考えていたのです。ただゲノムの解析ができるようになって、目の色が茶色で、肌にシミができやすいなどという特徴が初めてわかったんです。
一方まだ全くわかっていないのは、生活習慣にも影響するようなエピジェネティックな部分に関してですね。今後、タンパク質などの分析ができるようになると、それも分かるようになるかもしれませんね。
さらに縄文人は刺青をしていたとも言われているのですが、それも本当かどうかはゲノムの解析からは分かりません。
ゲノムを解析することで、骨格だけじゃなく質感もリアルな再現ができるようになったんですね。
縄文人として初めてすべての遺伝子を調べることができた船泊23号ですが、北海道の礼文島でどの様な生活をしていたと推定されているのでしょうか?
船泊の縄文人はちょっと変わっています。実は冬は船泊に住んでいなかったんですよ。
縄文人は狩猟採集民ですから移動生活をします。夏の間に船泊でキャンプをして、秋になると道東か道央のあたりまで戻るという暮らしをしていたようです。ただ道内のどこを拠点としていたのかはわかっていません。同じゲノムを持った人たちがいる遺跡があれば分かるのですが、そこまで縄文人のゲノムを調べられていないのが現状です。
なぜ夏に海を渡って、船泊まで行ったかというと、この島にトドやアザラシが来るからです。彼らは海獣類を獲って食べてたのです。遺跡からは海獣の骨が数多く出土しています。
船泊縄文人は、一般の縄文人と違ってどんぐりなどは食べなかったんです。私たちの骨は食べたもので作られるので、何を食べたかは骨の同位体を調べると大体見当がつきます。それを見るとやっぱり海獣類をものすごく食べていたいうことが分かります。船泊の縄文人はエスキモーなどの北極圏の先住民の食生活に似ていたようです。おそらく道南の縄文人とも違っていたと思います。同じ縄文人と言っても、それぞれの土地で採れるものを食べていますから、食べているものが全然違うんです。一般に縄文人はドングリやクリを食べていたと言われますが、西日本の縄文人はシイの実が主食になりますが。世界的に見ても、狩猟採集民とはいえ狩猟だけに頼っているのはエスキモーなどの極北の人達だけですね。寒くて植物がないので動物を食べるんです。
船泊縄文人とエスキモーは共通の遺伝子変異を持っています。船泊縄文人はデンプンの消化がうまくできない人達だったことがわかったのです。この遺伝子の変異は北海道の縄文人にはよく見られるのですが、北海道以外の縄文人にはありません。船泊縄文人のように高脂肪の肉を食べる場合は、この変異があっても問題になりません。エスキモーも本来はそういう食生活が望ましいのに、食生活が西洋化してパンなどを食べるようになったので、病気になることが知られています。ただしこのデンプンを消化できない遺伝子はアイヌの方には残っていないようなので、日本ではどこかで淘汰されたのだと思います。
船泊23号は夏の間、島にいるときに亡くなりました。船泊遺跡からは27体人骨が出てくるのですが、何百年間かの間で夏に亡くなったのだと人びとだと考えられます。夏の間に船泊で狩猟して、冬用の食糧として干し肉などを作って持ち帰って暮らしたのでしょう。縄文人も、煮貝や干し貝作ったり食物の保存を工夫していました。土器が大量に出土していることから、火を使って煮炊きなどの調理をしていたことがわかります。
船泊遺跡に大変興味が出てきたのですが、今も見ることができるのでしょうか?船泊遺跡で見るべきポイントを教えてください。
実は遺跡自体はもうありません。船泊遺跡が発掘されたきっかけは、自衛隊のアパートを作るための工事です。現場から縄文人骨が出土して、発掘調査をすることになりました。ですから、今では遺跡は自衛隊のアパートになっています。ただ建物を建てなかった場所には、まだ骨が埋まってるかもしれません。
礼文島の一番北が船泊湾で、日本の一番北に近い場所なんですよ。船泊遺跡は、オホーツク海を眺める展望台へ行く途中にあります。船泊遺跡から出てきた遺物は礼文島のフェリー乗り場近くの博物館に展示してあります。博物館は夏の間だけ開いているのですが、船泊縄文人の復顔像もありますので、機会があれば訪問して下さい。礼文島は高山植物なども咲くので、夏に行くのがおすすめです。博物館の周りには美味しいウニ丼を出すお店もありますよ。
夏の過ごしやすい時期に先祖に思いを馳せる北海道旅行も趣があっていいですね。